米子を訪ねて


米子を訪れて

皆生温泉
旧日野橋 皆生温泉 和傘

山陰有数の温泉地で賑わう皆生温泉も藩政時代には海池村と称し、風波のために、時に池、あるいは海になったという。

明治33年海岸の浅瀬で温泉が発見され、当初は露天風呂として夏のみ利用されていた。本格的な皆生温泉の開発は、大正10年有本松太郎が皆生温泉土地(株)を設立し、京都を模して温泉市街地の区画設計を行った。海浜リゾートとして注目が高い現在の皆生温泉は、様々な先人達の努力によって生まれている。

夏の或る日 安部朱美さんの人形

安養寺境内を散策している時、皇室ゆかりの宝鏡寺門跡人形公募展の大賞を受賞した人形作家のことが話題になった。やさしさに溢れた人形を作る人だという、思い立って訪ねることにした。その人、安部朱美さんの住いは安養寺川沿いに広がる田園地帯の一角、訪ね行く桜並木の道々の川原には草紅葉が燃えている。

受賞作「母ちゃん読んで」を見せていただいた。作品は人形五体で構成、若い母親が胸を開いて乳を含ませながら三人の幼子に本を読んで聞かせている光景が表現されている。母親のやさしい眼差し、うっとり聴き入るこどもの表情の素晴らしさ。

安部さんは目下、高度経済成長期前、昭和三十年代の家族を描くことに力点をおいている。近作「夏の或る日」は西瓜やアイスキャンデーを家族揃って食べるささやかなしあわせを心こめて描写。

「物に不自由しても心のふれあいが存分にあった時代の家族や子どもの暮らしを人形の姿を借りて見直していきたい」

安部さんはいま、二年後の全国巡回展への構想でいっぱいだ。

兼久橋
妻木晩田遺跡


「伯耆の国名は、伯耆風土記によると、八岐大蛇に呑み込まれそうになった稲田姫が『母来ませ』『母来ませ』とひたすら母に助けを求めた『母来・ははき』が『ほうき』となまったことに由来するともいう。よそ者もおおらかに受け入れる包容力、母親の懐に抱かれているような心地よい米子の風土気質の起源は遠くそこらに求められるかも知れない」

国内最大規模の弥生遺跡「妻木晩田遺跡」から眺める淀江町の町並み。水と緑と史跡のまちとして淀江町は豊かな自然と悠久の歴史と文化の香りあふれる古代ロマンを体験できる。環境省指定名水百選「天の真名井」を代表とする伏流水湧水群は神秘的原風景を残す。

淀江傘の復刻に燃える

まだ記者として地元の記事を書いていた頃、私は淀江傘の「浜干し」の取材によく行った。砂浜にずらり並ぶ傘の幾何学的紋様の壮観さ、美しさは一幅の絵であり、風物詩として懐しく思いだす。

洋傘の普及とともに和傘つくりの職人も減った。衰退の一途をたどり、近年ほとんど作られなくなった。五年前、坂田弘さんは「淀江傘伝承の会」を立ち上げ、廃校になった校舎を借り受けて「和傘伝承館」の看板をあげた。建築業からの転身である。
和傘は高等な技術、「数をこなせば誰でも出来る」と坂田さんはこともなげに言うが、使い勝手がよく、かつ美しい傘は繊細な美的感性から生まれてくる。坂田さんは竹藪から竹を切り出すことからはじめ、一本の傘としての用をなすまで全工程を一人でこなす。

淀江傘の起源は文政四年(1821年)に遡り、工芸品としてよりも主に日常の用につくられて愛用された。
「和傘には和服の観念は切り捨てて自由に使いこなして欲しい、だから、和傘を知らない世代にこそアピールしなければ」、坂田さんのこの着眼が淀江傘の新しい需要を広げつつある。
日常品としての用を追求しながら一方では、例えばパリコレのような世界的出品の場に送り出す挑戦もしてみたい、坂田さんはほとんど一日中、伝承館にこもって「和傘の夢」をこつこつと紡いでいる。

坂田弘さんと中谷佐和さん
上/実用品であった和傘の製造技術を伝承し、新たな創作活動を模索する坂田弘さんと中谷佐和さん。下/浜干しされた淀江傘の風景。美しい風物詩が今でも続いている。
後醍醐天皇ゆかりの「深田氏庭園」

今回取材班の集合場所は、いまテレビで人気の「篤姫」にあやかって皇女瓊子内親王の墓所、安養寺。市内福市のその近くに住んでいた頃はしばしば訪ね、隠岐島に配流された父君後醍醐天皇を慕って京からはるばる伯耆の国まで辿り着き、この地で没した姫に思いを馳せながら時間を過ごしたものだった。

安養寺は、桜並木の石畳を歩き、石段を登っていくと右手前方には大山が聳え、正面は鬱蒼とした大樹に守られた墓所、時が停止したような静けさの中、冬鳥の声がひときわ高く澄んできこえるのも当時のままだった。

安養寺を編集者と散策
深田氏庭園後醍醐天皇

これは後醍醐天皇が市内車尾の深田氏庭園で詠んだ歌。
ここで父君に再会を果たすことができていたならいかばかりの歓びであっただろうか、せめて姫に代わってその庭を眺めてみたいと思った。

名勝指定を受けている「深田氏庭園」は、晩秋の陽射しの中、端正な佇まいをみせて静まっている。現当主が三十六代目、約八百年の歴史を刻んだ屋敷とも知らぬげにヒヨドリの群は傍若無人に鳴き交わしている。

再び父君にまみえることもなく、見知らぬ土地で心ならずも最期を迎えた姫の、父を恋うやるせなさが胸に迫ってくる。

ちなみに深田氏の初代は、鎌倉時代に米子に入り沼沢地を開拓、累代の大庄屋として近隣にその名が響きわたっていた。以後各地から続々と人が集まり皆生を開墾、江戸期になると鳥取藩家老荒尾氏は、お家断絶となった松江藩主堀尾氏の家臣を受け入れ福原あたりの開墾を命じた。しかし刀を鍬に持ち替えることは容易でなかった。当時その辺りは寒村で海端まで人が住むようになったのは近年である。

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さんいんキラリ 冬号 2009 No.14 より転載


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