妙興寺


米子の礎を築いた人物を祀る日蓮宗の古刹
その背景には、悲しき伝説も残される

妙興寺 あらまし
開山の瑞応院日逞(にってい)上人は、戦国、安土・桃山時代に堺(大阪府)を支配していた会合衆の一人で、薬剤屋を営む豪商の油屋(伊達)常言の弟であり、同じく常言の次男で、また「天然記念物の大蘇鉄」で知られる堺の広普山妙国寺開山である高僧仏心院日光(にちこう)上人に師事し、やがて、日逞上人は法華経の布教の為に、南蛮との取引に使っている油屋の堺船に乗り西へ下り米子へ入ったが、当時の現在地は松林で何もなく未開の地であったため、堺より建築資材や人材などを海路運び入れ、切り拓いて諸堂を設立し永禄7年(1564年)3月28日「普平山菩提樹院妙興寺」と称して創立。

米子城執政家老
横田内膳正村詮は、徳川家康から後見人・執政家老の命を受けて、甥の幼い城主中村一忠を城主に扶け、前任地の静岡と同じく非凡な才覚を発揮し検地や職人・商人町など米子十八町を構成し、商都の礎を築き堀・河川など交通路を整備し、陸海運の振興を図るほか、米子の街を築いた賢明な武士であった。\

歴史に残る「米子城騒動」
横田内膳正村詮の才覚を妬む家臣の策謀に唆された一忠により、慶長8年(1,603年)11月14日、志なかばで無念の最後をとげ、横田内膳正村詮は妙興寺に葬られた。


所在地
鳥取県米子市寺町46
電話
0859-22-3453
駐車場
あり
アクセス
JR米子駅より車で5分


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